ひたちで考えをまとめるお手伝い

KJ法を考えをまとめるためにどう使っていくかを綴っていきたいと思います。

KJ法自分史 その1

私の仕事のベースにあるのは、KJ法だ。

KJ法との出会い

KJ法と出会ったのは、30年ほど前。東北大学の学生の頃、川喜田先生の『発想法』『続発想法』『野外科学の方法』を読んでレポートを書くという課題でだった。

川喜田先生が、大学で開催されたシンポジウムにいらしたとき、宗教学研究室で川喜田先生と研究室メンバーでお話しする機会があった。

その時自分が何を話したのかは覚えていないのだが、つたない学生の話に真剣に耳を傾けてくださる姿勢がとても印象的だった。

 KJ法を実際に使い始めたのは、卒論のまとめのためだった。

卒論提出まで一ヵ月と迫った時、KJ法でまとめることを思いつき、実際にやってみたらうまくいったことがきっかけだった。

その辺の経緯を1987年、当時編集長をしていた『CSかわら版』に書いたことがある。

昨年の12月半ば頃、僕は卒論をかかえて悶々としていた。提出は1カ月後に迫っているのに、また明確な構想が立たない。取り上げる本("Witchcraft, Oracle and Magic among the Azande")をパラパラめくってみる。だが、それぞれの想念が無方向に飛び回って収拾がつかないという状態だった。いったいどうしようかと焦りつつ、半ばあきらめ気味にボーッと音楽を聞いていた。その時、ふとKJ法のことが頭に浮かんだ。KJ法については以前から知っており、本も何冊か読んでいた。使ってみようかとは思いつつ、そのままになっていたのだ。「あれでなら何とかなるかもしれない」僕はさっそく書棚から『発想法』『続発想法』を取り出して読み始めた。「よし、いける!」脳天気な僕はもう大丈夫という気分になって、その日はゆっくりと眠ってしまった。(「僕とKJ法『CSかわら版 No.10』より)

創造の広場で話し合いでKJ法を使う楽しさにめざめる

大学を卒業し、大阪大学の大学院を受験するもダメで、仙台を離れ一年間東京で過ごすことにした。

大学院受験のための浪人生活ということで、慶応大学の吉田 禎吾先生の研究室に聴講生として席を置きつつ、ニセ学生としていろんな大学のおもしろそうな先生の講義にもぐりこんだ。

國學院大學坪井洋文先生や一橋大学の長島信弘先生、早稲田大学西江雅之先生、駒澤大学佐々木宏幹先生などなど。

東京で学びたかったのは、KJ法と竹内敏晴さんのレッスンだった。

竹内敏晴さんのレッスンに参加したとき、休憩時間にKJ法について熱心に他の参加者に説明している人がいたので話しかけた。

その人は、創造の広場という集まりをやっていて、6月の例会で橋本慎太郎さんという方が「KJ法自分史」というテーマで話をするということだった。

その例会に参加した時に、「昔移動大学というのがあって、それをまた復活させたい。 そのプリテストとしてみんなでタイに行く」という話を聴き、ヒョイと私もその旅に参加することにした。

それが、創造の広場(CS)と深く関わることになるきっかけだった。

CSのベースにあるのは、ヤマギシズムKJ法だった。

ヤマギシズムでは研鑽という話し合いの場をとても大切にする。

その話し合いの手法としてKJ法を活用していた。

何かのテーマで話をする際には、図解を作りながら話をするのだ。

ワイワイガヤガヤ話をした後、ラベルを書き、それをみんなでまとめていく。

話をする際に発言できなくても、ラベルに書けば、自分の意見は出せる。

話すのが苦手な自分にとっては、とてもありがたい手法だった。

タイの旅でも、行く先々でKJ法の花火という手法を使って、その時々の感想をシェアしまとめていった。

僕自身にとってもタイの人達やタイにいる日本人との交歓は楽しかったが、もっと面白かったのは、みんながその時々感じた事を出し合う整理研や花火だった。みんなの感じ方と自分の感じ方を照らし合わせるのが非常に刺激的で、自分の感受性の鈍さを思い知るとともに、みんなの感じたことを聞くことによって自分の感性がどんどん広がっていくような感じさえした。そして、花火や整理研がみんなとの関係を作り上げていく上で非常に大きな威力を発揮していたと思う。ともかく、その20日間、いろいろな心の動きはあったものの、普段の僕には信じられないくらいみんなといるのが楽だったのである。(「海は一人じゃ寂しすぎる」『CSかわら版 No.10』より)

 CSでみんなで図解を作りながら気持ちや考えをシェアし、まとめていく楽しさに目覚めたのだ。

CSでは、あらゆる話し合いにKJ法の花火を使っていて、KJ法の経験がある程度あった私は、だんだんとラベルの配置やまとめなどを担当するようになっていった。

CSの仲間たちと一緒にKJ法新宿塾でKJ法基本コースと基礎コース、川喜田研究所で6Rコースを受講し、KJ法の腕をスキルアップしていった。

KJ法を仕事に

1990年前後は、KJ法経験交流会やKJ法学会などの集まりが盛り上がっていて、とても刺激的だった。

私は、CSの仲間と始めた農場の現地担当ということで、1988年から信州富士見町に移り住んでいたが、その集まりの度ごとに上京して参加していた。

1990年のKJ法学会の報告書の制作をしてくれないかという話が、当時ヒマラヤ保全協会の事務局長をしていたCS時代の仲間、鎌田陽司氏の紹介で、川喜田研究所の主任研究員だった山浦晴男氏からあった。

この『KJ法研究 1991』をDTPで制作するため、Mac IIsiとポートレートモニター、プリンター、スキャナー、モデム、ソフト一式を100万近くかけて導入した。

ここで思い切ってMacを購入したことが後々の仕事につながっていったのだから、不思議なものだ。

1992年、川喜田研究所を退職し、情報工房を立ち上げた山浦氏から、Macユーザーからの問合せをまとめる仕事があるので、手伝ってくれないかと声をかけていただいた。

それ以前から、アンケートの自由意見欄のKJ法によるまとめや日蓮宗の布教委員会の会議のまとめなどの仕事はしていたのだが、KJ法による情報まとめが仕事の中心となったのは、この仕事がきっかけだった。

Macユーザーからの問合せまとめは、「Mac魔法の手引き」というハイパーカードで作ったQ&Aソフトになった。

その後も、マイクロソフトやエーアイソフト等のサポート電話のKJ法によるまとめの仕事を続け、その成果は1994年にユーザーとメーカーの架け橋「マジコム」という、FDによる情報検索ソフトとFaxによる情報提供システムという形になった。(インターネット普及後だったら、ブレイクしたかもしれないが)

また、定性データを検索・蓄積していくデータベースシステムとして、サポート支援システムを提案した。

1988年〜2003年までの仕事に関しては、以下のページにまとめてある。

仕事歴

 

※ここまで書いてきて、少し疲れたので、2009年にメディアクラフトを再開した後のKJ法との関わりは、また後で書こうと思います。